結局、スノウは大正義

2017/10/12

 

まだガラケーが主流だった頃、私はアホみたいに空の写真ばかり撮っていた。

 

綺麗な空を見かけると、何が何でもカメラに収めないと気が済まない。

データが消えるとこの世の終わりみたいな気持ちになって、癇癪を起こす。

今振り返るとちょっと恐ろしくなるくらい、写真を撮ることに執着していた。

 

実際の生活がそれほど順風満帆でなかった中学時代の私は、たぶん写真の「嘘つき機能」に救われていたのだと思う。

 

当時私が使っていた携帯の写真は独特の青みを含んでおり、不思議なノスタルジー感を纏っていた。

そのどこか寂しい別の世界のような美しい写真を眺め、浸る行為にとてつもない心地よさを感じる。

 

つまり、当時の私の中では現実からの逃げ場として「嘘つき機能」を用いるという構造が成立していた。

 

この「嘘つき機能」については、もうひとつ挙げたいものがある。

それは思い出の脚色だ。

 

例えばある時、あまり楽しくない思い出ができてしまったとする。

 

微妙な心持ちで振り返っていたら、その日撮った写真に写る自分や周りの人間が、たまたま、とびっきりの良い笑顔だった。

そうなると、実際の記憶が薄くなっていくにつれ、その時間のイメージは徐々に写真の中の笑顔へとすり替わっていくかもしれない。

 

逆にめちゃくちゃに幸せな思い出だったとしても、残されたのが酷くブチャイクに撮られてしまった写真だったら……思い返すのがためらわれる出来事になってしまうこともある。

 

記憶力の乏しい私には、度々こんな現象が起こった。

 

私の脳みそが狂ってるのが大半の要因なのかもしれないけど(笑)

でもデジタル機器に囲まれている人なら共感できる部分も少なからずあるんじゃないかと思う。

 

脳内で描かれる本当の思い出よりもメディアの中の思い出の方が大事だと感じる場面は多く存在する。

写真をSNSにあげたい、思い出を残したい……。

技術の発展により写真の仕組みが大きく変わった今、「嘘つき機能」がますます威力を増していることは確かだろう。

 

カメラは紛れもなく目の前の光景を写している、人々はそういう認識がある。

だから堂々と嘘をつける。

 

もちろん嘘をつく対象は他人だけではないし、自分のことだって簡単に騙せる。

そして今はその偽りやすさが大切なのかもしれない。

 

ちなみに、写真には演劇的要素があると言っている人がいたけど、まさにその通りだと思う。

曖昧さを分かりやすくするのには最適のツールだ。

 

昔は写真の虚偽性に救われてきた自分。

今でも本質は変わらないかもしれない。

 

でも、これ以上写真を妄信することはできない。

 

必死でシャッターを切ったあの頃の空の本当の姿だって、もう分からないのだから。

 

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