だがしかし、スノウは神

2017/04/10

 

昔は携帯で綺麗な空の写真ばかり撮っていた。あとで見返して、ただ綺麗だなと思っていた。綺麗だとそれだけで幸せだったから。実際はそうでもなかったのに。多分中学時代の私は写真の「嘘つき機能」に救われていた。

 

そんなに幸せでもない思い出だったとしても写真に残っている瞬間がたまたまとびっきりの笑顔だったとしたら、思い出はそのイメージで覆い尽くされる。その逆でめちゃくちゃに幸せな瞬間だったとしてもその瞬間の写真がものすごく不幸せな写真だったら思い返したとき、幸せじゃない時間のように感じる要素と成り得る。少なくとも記憶力の乏しい私はそうだった。

 

思い出を真空パックしたいなんて言うけど、最近の写真の目的はもっぱら記録することよりも写真を撮ることによって生まれる快楽に浸ることになっているのではないか。記録という手段がなかったら幸せな時間は頭で記憶しておくしかないから、ものすごくかけがえのない大切なものとして噛み締めるだろう。そんな瞬間にふとカメラが舞い込んで来たら、その思い出はきっとどうしても形に残しておきたいと思うに違いない。だからカメラが普及しはじめた頃は記録する行為自体が大きな喜びだっただろう。

 

でも最近はどうだ。目的と手段が倒錯している。写真を撮ってSNSにあげたい、思い出を残したい…。本当に大事な思い出より、メディアの中の写真=思い出の方が大事になって来ているような気もする。

 

それは写真の虚偽性が生み出すものだ。写真ではある程度の効果・演出を付け加えることができる。しかも人間の目には分からない程度の改変が技術的にも容易な時代になってきている。構図に編集、写真は映像よりも容易い。映像と写真を比べて写真が勝る点を挙げるとするならば容易さなのではないだろうか。容易で偽りやすい。それだけかもしれない。でも今むしろその偽りやすさを売りにした製品ばかり溢れている。

 

カメラは紛れもなく目の前の光景を写している。人々はそういう認識がある。だから堂々と嘘をつけるのだ。嘘をつく対象は他人だけではない。自分のことだって簡単に騙せる。写真には演劇的要素があると言っている人がいたけど、まさにその通りだと思う。曖昧さを分かりやすくするのには最適のツールだ。

 

自分は写真のそういう嘘っぽいところに魅力を感じる。無限の可能性が秘められているとも思う。

 

綺麗に写った写真を見て、それが本当に綺麗だったかどうかは分からない。だからエゴをエゴとして見せないような作品の作り方は結局どこか嘘っぽい。綺麗だった。美しい。…本当?まあ実際こんなこと口にはしないけど、自分は己の嘘を見過ごさないように意識していかなければと思う。

 

演技をしているなら演技をしていると、素直に伝えてしまえばいい。笑い飛ばしてしまえばいい。昔の滑稽な自分も含めて。写真界のトリックスターになりたい。めちゃくちゃに引っ掻き回してやりたい。もちろん愛する写真の発展と継続のために。アホみたいだね。